昭和五十七年八月七日 朝の御理解


御李第七節 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなけれ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある。」


 信心はせんでもおかげはやってある。天地の御恩恵を受けなければこれは、生きとし生きる者がそうですけれども、とりわけ、ここでは人間をさしてあるわけでしょ。天地の親神様の御恩恵に浴しながら生きておるのだと、言う事を説明受けますと、成程、そう言やぁ、天地の御恩恵なしには生きられんなあという事がわかるという事は、わかったからと言うて、おかげにつながるわけではありません。またの御理解に神の大恩を知らぬからとか、ね。天地の大恩がわかれば、ね。無事達者で子孫も続きと仰せられるほどしのおかげを頂くためには、いよいよ、ね。御恩恵を御恩恵と悟らしてもらい、その御恩恵に、ま、報い奉る心とでも申しましょうかね。昨日の御理解でしたか、神の願いを、わが願いとしてというような御理解でしたね。昨日の、一昨日でしたかね。だからその、本当に神様の大恩、御恩恵をいう事が本当にわかったら、その神様のお心に添い奉ろう、ね。神様の願っておられる願いを、自分の願いとして行きたいというような心が育って来たとき、初めて神の大恩がわっかたという事になるのじゃないでしょうかね。成程、そういう信心がわっかたら無事達者で子孫の続きというようなお徳も受けられるでしょうね。神のおかげを知らんから互い違いになるとおしゃるような互い違いになるような事はないと思うです、ね。
 昨日、まる少、御本部から帰りまして、栄四郎と恵城と二人で、ま、挨拶に来てくれました。もう、本当に今度のまる少も、これは、恵城の言う事ですけれども、まる少がたくさん来とったばってん、合楽のごと素晴らしいまる少、またはあの、バンドはなかったと、何か何とか言いました。まぁ、僕は合楽教会が一番という事を見てから、何か責任を感じたような意味の事を言うんですよ。まあだ、あの人は、二年生ですから、大体は、三年生からですけども一緒に、それで、ま、その合楽のがころっとして、ま、素晴らしかったと。この素晴らしい信心を二代または三代として、受け継がなんならんという事を考えとるのじゃないでしょうかね。あんまり、ま、素晴らしかったから責任のようなものを感じたという意味の事を言っております。 
 先だって、夏期信行が終わった時に、信徒会館でまる少の、あの演奏を聞かしてもらいました。時に本当にまる少をいうのは、せっかく、例えば、こ、教えとっても卒業していきますからね。みんな、だから、段々、後を育てるという事は大変でしょうけれども。それがやっぱり、こう、毎年毎年、それが充実していっておる。思いがけない人達が参加にて、ま、おかげを頂いておる。本当に、ま、十日間位な、勿論、猛練習をしておりましたからでしたけれども、素晴らしい出来を、私は御礼を申さして頂いとりましたら、神様から「薫ようなおかげぞ」と頂いたです。薫ようなおかげ、ね。
 これは教会長が、いろいろあゝせよ、こうせよと言うて出来るわけ、出来たわけでもない。ま、言うならば、一人でに物が出来るようなおかげの中に、しかも、薫ようなおかげである。その翌日でしたか、あちら、入り口に開教十五年の看板が、こう見事に出来ております。もう、久しぶりで若先生が、ここの四時半の御祈念を終わったら、「今日、看板が立ちましたから見て下さい」という。で、下りて、ま、今は、も、本当に久しぶりに外に出ましたが、も、途端に見事だなと思いました。実はこれは、白に黒で書く筈だったわけ。ところが、あの看板屋さんは、どうもあの紺色ですか。あの立て看板、教のあれも、やっぱ紺ですけれども、紺が好きな人らしいですね。そうも、今度も紺に白で、こ、染め分けて看板、御礼を申さして頂きますと、これも、その時頂いた、「薫ようなおかげぞ」と。十年の記念祭の看板が出来た。これから十五年祭に向かって、ま、何か、一、二カ月の間に、また、薫ような、言わば、御大祭としておかげ頂かなければならない。薫ようなおかげというのには、無理がない、ね。言うならば、いわゆる自然を重んずる心と書いて、薫と書くように、いよいよこれは、私の信心の芯でもある、合楽教会の信心の芯でもある、成り行きを尊び、大切にさして頂きながら、その事点事点を合掌して受けるという事。そこから、合楽の場合、言うなら薫ようなおかげになって来ておるのです。だから皆さんの一人一人の上にも、無理のない薫ようなおかげを、本当に頂いて頂きたいと思うです、ね。それにはです。まず、天地の大恩を本当に知る事。世界中の氏子、信心はなくても、おかげはやってあるというおかげなら、誰でもすぐ分かる。ならそれが、わかったから無事健康で子孫も続きとか、互い違いにならんというような、いやまたの教えを引用すると、そういう事になりますけれども。互い違いにならんですむ薫ようなおかげ。無事健康で子孫も続きというような、そのおかげの、言うならば、わ。神の大恩を知ればという事は、今申します、神の大恩に報い奉ろう、神の願いを願いとする私共。そういう信心になった時に確かに、無事健康で子孫も続き、互い違いになるような事のない薫ようなおかげになってくると思うですね。だから、皆さんが願われるおかげも、それを願っての信心でなからなきゃならんと思うです。合楽では、その手だてが合楽では、このように限りなく説かれるのですから、自分の小さい知恵、力とか、ね。思惑と言うようなものがあっては、おかげになりません。もう、本当に、馬鹿ほどに素直に合楽で頂く御理解が、そのまま、今日一日の皆さんの信心の芯とも支えともなるようなおかげを頂く事に焦点をおかなければいけません。そういう例えば、神の大恩が本当に分かる。世界中の信心はなくても、おかげはやってあるとおっしゃる。そういう、おかげが本当に分かる。それにそして、大恩に答え奉ろうと言うような信心が出来る事の為に、いわゆる、天地日月の心になる事、肝要だと言われる信心を頂かなきゃいけんですね。私は、「信心は、私は簡単です。明瞭です。おかげが確かです。」とか言うふうに、ま、合楽のキャッチフレーズですね。ただ、これが本当にそうだと思える為には、どうしても信心が好きにならなければ、駄目です。でなかったら、難しいです。皆さんも、そうでしょ。もう、おそらく遠方の方は、三時過ぎに起きて見えるわけでしょ、ね。とてもその、朝、もう、朝起きが、ね。目覚ましのおかげを頂く事が有り難いと感じれるような信心にならなければ駄目です。日々、こうして日参のおかげを頂いておる事が、もう本当に有り難いんです。そして日々、実験実証さして頂く、その実験実証、そこに現れてくるおかげこそが、その信心こそが、ね。熊谷さんじゃないけれども、はぁ、今日も、また、あの世に持って行けるものが出けたと、言う事になるのです、ね。そこに言うならば、天地日月の心になる事肝要だと。為には本当に、天地日月の心。それを、ま、いよいよ、ね、薫ようなおかげを頂く事の為に、自然をいよいよ重んずる心、ね。なかなか、ね。初めの間は、そんな訳には参りません。成り行きを尊ぶとか、大切とかという事はなかなか出来ませんけれども、そこを言うなら辛抱しいしいに受けていっておるところから、生まれてくるのが実証です、ね。例えば、言わんでおってすんだ。言わんでおって良かったというおかげは、その言うなら辛抱からしか生まれて参りません。それが段々、本当な事がわかって参ります時に、いよいよ信心の、ま、確立と言う事になります。いわゆる「一切神愛だな」という事がわかって参ります。
 昨日、あるお道の関係の新聞が、こんなにたくさん、立派な、たくさんなページを使うて、これを、ま、あらあらでしたけれども読んでもらった。ところが何か知らん、ひとっつもこちらへ、響いて来ない訳ですね。してその後に、正教先生が今月の「合楽だより」の原稿が出来ましたからと、言うてここで読んでくれた。これは、ま、自分よがり、わがもん宝と言うな方に受け取られれば、もう、仕方のない事ですけれども、もう一番始めから最後まで、ね。素晴らしいなあ。その気で聞いたら、みんな、助かる事の出来れるおかげの頂けれる内容ばかりである事に、改めて御礼を申し上げた事でした。皆さん、あの、合楽だより。ま、新聞は、あれは、ただの新聞じゃからと簡単に読まずに、本気で頂いてごらんなさい、も、必ずおかげの頂けれる話が、または記事が、になっております。なぜでしょう。どこが違うのでしょう。ただ私のんなら、親先生がわがもん、宝で言いよんなさると言やあ、もう、それまでですけれども、ね。その活字の一字一字にね、合楽の場合には、もう絶対であり確信が満ちておるからです、ね。これは私自身の信心が、ね。日々、言いなら、ね。神様を神様から頂いた事を信じて、そのまま頂く。そこから生まれてくる実証をもって、日々の御理解が説いてある。その御理解に基づいての記事ですから、合楽の場合には、ね。確信に満ちた、言うなら記事ですから。それをその気で読めば、助かりにもつながるという事になります。どんなに美言美句をもって連ねてあってもです、ね。書いておる人の自身がそれを、信じてはいないだろうと思う位な事で書いておるのですから、響いてくる筈がない、ね。だから、なら、ここでは私が、言うなら確信に満ちたお話しを皆さんに、聞いて頂いておるのですから、ね。皆さんが、その気になって自分で、ね、制作せず、自分で曲げず、ね。言うならばその通りを頂こうとする一つの、やはり純粋さがいるですね。そりゃ、ま、私よりも立派な頭脳をもったり、力量をもったりした人がありましょうけれども。ここでは、やはり馬鹿と阿呆で言われる位に、も、本当に馬鹿のように阿呆のように、親先生の言葉、一言一言をそうだと頂かなければね。言うなら次の薫ようなおかげになってこんです。ね。お互いの信心が、いよいよ確立すると言うか、ね。それには、まず、天地の大恩を知る事、また神様の下さってあるおかげを、ね。世界、信心はなくてもおかげはやってあるというようなおかげをまず、私共がわからなきゃいけない。わかったというだけではなくて、ね。そこには、も、こういう働きの中におかげを頂いておるのだから、これに答え奉らしてもらえる信心、ね。神の願いを、わが願いとするような信心にお育てを頂く事の為に手だてが、天地日月の心です、ね。その天地日月の心が、ま、あらゆる角度から皆さんが、日々頂いておられる通りですから、ね。そうぞ、各自各自のいうなら無理のない、ね。いうなら薫ようなおかげが、自分の一身上の上にも一家の上にも自分の周辺にもそういう、ね。薫り漂うようなおかげを頂いて頂きたいと思います。初めの間は、やはり信心が好きになるまでは、辛抱がいります。けれども好きになったら、もう、辛抱はいりません、ね。もうただ、有り難いばかり、楽しいばかりです、ね。その辛抱しとる間がね。教えも、あゝ、親先生が言われるからと言うて、ま、言うなら泣き泣き辛抱という事もありましょう、ね。ここはこうしたいと思うけれど。こう言いたいと思うけれども、それをグッとこう辛抱する。していくうちに、その黙って治めるなら、黙って治めるという事が、こんなにも素晴らしい事だという事がこんなにも素晴らしい事だという体験が生まれて来るようになると、ね。それが言うなら、成り行きを尊ぶ事が、いよいよ有り難い、もったいないものになって来る。薫ようなおかげは、それからだと思うですね。私は、信心は容易いけれども信心が、ね、楽しうなるとか、容易いとかという事は、信心が好きになってくる人。言うならば、私、思うのにね、自分達の言う事を聞いてもらいたいなら神様の言う事を聞かにゃ出けんです。それが先です。はあ、強引に、どうぞどうぞと言うて、毎日参ってお願いしておかげ頂く、これもたくさんあり、合楽では、もう多いです、ね、でなかったら初めて参って来た人達なんかは、おかげ受けられませんから。だから、そういう事で終始せずにね。神様の言われる事も本気で聞くという事。聞いて守るという事。信心とは、神様を信ずるという事ですけれども。神様を信ずる心は、神様の言われる事を教えという、その教えを信じて疑わずに素直に頂いて、初めて神様を信ずる力というものは、もう、いよいよそこに、実証が生まれてきますから、信じんわけにはいけなくなってくる、ね。そういう信心を、いよいよ求めていきたい、ね。世界中の氏子におかげはやってある。ハァ、それはなら信心がなくても、成程、そげん言えば、天地の御恩恵ですね、と言う事はわかります。ならわかっただけでは、言わば、またの教えにありますように、神の大恩を知らぬからとか、ね。あるそれを、なら知るだけなら、すぐ話を聞きゃわかるけども、それが実感として、ね。本当に、この神様のおかげを頂かなければ立ち行かん事の事実がわかって、その御恩恵を御恩恵として御恩恵に報い奉るような信心が出来た時、初めて、ね。互い違いになる事もなからなければ、ね。身代も出来、子孫も続きといったようなおかげにつながってくるんです、ね。だから、神の大恩を、まず本当に知る事。その知る手だては、天地日月の心、以外にない、ね。そこからいよいよ、ね。各自各自のなら、自分の話でも、ね。やはり確信に満ちた話でなかならければ、人に通じませんです。どんなに素晴らしい、ま、それこそ論語読みの論語知らずになってしまいます、ね。本当に自分が体験した、いうなら話が出来る。自分の血に肉にしてからの事でなかならければいけません。それまでが辛抱、その辛抱していくうちに辛抱せんですむような、言うなら朝参り一つでも有り難うなり、楽しうなり、ところまで参りましたら、いよいよ信心は、ね。楽しいもの、いや愉快なまでの働きを受けながら信心を限りなく進めていく事が出来ます。
 私はこの昨日、送って頂いた他所の新聞を見せて頂いて、ね。助かりにつながらない、それは確信。神様を信じ確信をもっても記事でないからだ。合楽のは、ただ、一枚の薄い新聞ですけれども、初めから最後まで、私、聞かして頂いて、その気になって頂いたら、ね。この新聞は助かる新聞として読んでもらう事が出来るな。それはもう、もとを言うと、私の神様を信じて疑わない信心から生まれておる記事ばかりであります。皆さんもです、ね。それを信じて疑わない、それが信心です。神様は、言うなら神を信じたい。ならば、神様から信じられる為に、神の言う事を聞かにゃいかんです。神の言う事を聞く、という事は神様の教えを本当に、自分の血に肉にする精進です、ね。そこから神様を信ずる心が、いよいよ育ってくるんですね。                 どうぞ